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春頃のことですが、私が好きで見ていたTV番組の中で、こんなナレーションが語られていました。 その番組では、その「文化」のサンプルとして、餅搗きの臼と杵、納豆、酒樽などを紹介していましたが、確かにこれらは日本人の我々なればこそかけがえのない物達で、臼と杵がスイスにあったり納豆がイギリスの食卓にあったり酒樽がケニアにあったりしたら、そりゃ邪魔にされるのは当たり前でしょう。 ところでこれを、「文化」どうしがインスパイアし合って、普遍的な「文明」の進歩への「歩みの一歩」になり得るか、という視点で考えてみましょう。 つまり、ローカルの「文化」の中に普遍的なエッセンスを見出し、それを抽出して普遍的な「文明」の中に取り込んでいくことで「文化」の価値を高める、という作業です。 その代表的なものが歌舞伎でしょう。 歌舞伎は地球の上においては特定地域におけるローカル演劇です。日本語という、特定の言語圏にのみ普及が認められる、シェアの小さなマイナー芸術です。この点において、歌舞伎は他の東南アジアの多様な言語圏にそれぞれ成立している民俗芸能と、結局のところ変わりません。それが世界中でどれだけ有名であるかは、その国の持つ国力に左右されます。 日本はアジアとしては早い時期に独立国として世界と国交を持った為に、他のアジアの民俗芸能と比してスタートが早かった分だけ認知度が高いにすぎない、という見方もあるでしょう。 歌舞伎がヨーロッパに紹介される前に、ヨーロッパを席捲していた「ジャポニズム」が歌舞伎の後押しをしてくれたお陰で、歌舞伎を単なるキワモノとしか見ない、というようなことはおきず、好意を持って迎えて貰えた、というのも、その一助となりましたが、その後、ヨーロッパでは、エイゼンシュテインとジャン・コクトーという二人のメトロポリタン的マルチ芸術家を輩出します。この二人によって、歌舞伎は、「ローカルの「文化」の中に普遍的なエッセンスを見出し、それを抽出して普遍的な「文明」の中に取り込んでいくことで「文化」の価値を高める、という作業」が行われることになります。 彼らは歌舞伎の本質を「リアリティを超越することで生み出すリアリティ」と呼びました。リアルな演劇ではなくリアリティを無視することで、デフォルメ・様式化されたことで、逆に、見る者に、心情のリアリティを沸き立たせる、ということです。 ローカル文化の歌舞伎の中に、リアリティを越えたリアリティを見得という形で見出し、それを映画という万国共通の文明にストップモーションという形で取り込んでいくことで、歌舞伎は単なるアジアの民俗芸能というスタンスを越えた普遍を手に入れることになりました。 その状況は現代も変わらず、歌舞伎を見ない、興味を持たない若者の演劇で、「映画のストップモーションみたいな」演技をしたり演出をつけたりして面白がっているのが、実はそのストップモーションが、彼ら若者が「古い」「面白くない」と敬遠する歌舞伎から来ているということに気がついていません。 ところで、必要なエッセンスを抽出され、文明にとって役目が終わったかのような「ローカル文化」はその後、どこへ行くんでしょうか? |