
空間を聴く、などと大風呂敷のタイトルをつけましたが、今回のお話の発端は、現場のほんのちょっとした些細なこと。
今まで使用してきたチャンネルディバイダが故障をしまして、修理に出すに際し、代替機を貸してもらいました。 デジタルの機材ですから、D/A、A/Dで多少のディレイタイムが発生し、片チャンネルをデジタル、もう片チャンネルをアナログで聴けばデジタル側の方が音が引っ込んで聞こえるのは解ります。それをさっ引いても、聴いた印象、イメージがこれだけ違う。 空気感だ、と私は感じました。 そこのところを訊ねると、デジタルは20kHzで高域が切り落とされているのに対しアナログは高域投げっぱなしの状態だとのこと。それがデジタルとアナログの決定的な違いで、理屈では可聴帯域の外なので結果に反映されることはないんだが、実際に音を聴いてみると違いは出る、とエンジニアに言われました。 長い前振りになりました。今回はチャンデバがメインのお話ではありません。 何故みんなこれを何とも感じないんだろう。 多分、スピーカから出る音を一生懸命聴いているからだと思います。 人間は空間の中に生きています。空間に生きて、空間の音を聴いています。決して人間は耳にスピーカを押し当てて日々を生きているわけではありません。 スピーカもまた、単なる音源の一つでしかない。 そうやって聴けば今回のチャンデバの聴き比べのように違和感を感じることも出来るでしょう。 このスタンスで聴いた結果が周りのスタッフに「すごいシビアで高い水準を要求してくる」と受け取られるのでしたら、買いかぶられていて面はゆいのですがこのスタンスは間違っていないということなのでしょう。 以前このエッセイでお話しました「空間を想像/創造する」、それから「沈黙とは音がない状態ではない、沈黙という音がそこにあるのだ」というお話も、今回の「私達は音だけを聴いているのではなく、空間を聴いているのだ」という考え方で捉えていただければ、より御理解いただけると思います。 「沈黙とは音がない状態ではない、沈黙という音がそこにあるのだ」と書いた時には、何だかアラビア人がゼロの概念を生み出したときのようだ、哲学をやってるのかと言われたりもしましたが、空間という「容れ物」を考えていただければ、その容れ物の中に、音という要素、沈黙という要素が入っている、とお考え頂くことで御理解いただけると思います。 そういうスタンスで音を聴くと、ほら、チャンデバの音ひとつも違って聞こえてきますよ。 |